明治元年創業、小林商店の廃業への道

小林亀雄商店の100年の物語は、女の系譜である。
稼業から家業へ、しかし企業には成り切れなかった。
これはまさに3K物語だ。

 

事業化・法人化の失敗が承継問題を複雑にした。

当社は業務用食用油の製造小売業、お得意さんと職人と番頭と丁稚の世界をそのまま残していた。

 

料亭やレストラン・食堂への掛け売りと小口配達、顧客の好みに合わせて「油の味を作るブレンディング技術」がコアコンピタンス。

料理人のプライドを支える縁の下の力持ちであった。
高級食用油の「山二」ブランドで白木屋・三越にも販売していた。

 

二代目と六人の娘たちは戦中の統制・配給から立ち直り、戦後の近代化の波をまともに受け、日本橋蛎殻町で盛業していた。

二丁町の叔父(本家の長男)は、ガソリンスタンドへと方向転換し、高度成長とともに出光の代理店として大成功していた。

 

当社では嫁姑の争いが水面下で進行していた。
実力者で先代創業者の妻(祖母)が実際のオーナー経営者だった。

仕事のできない奥様は店には出ず、気弱な当主を尻に敷き、娘たちと奉公人は実力者の祖母が差配していた。

 

当主は業績悪化を横目に、道楽・趣味人へと逃げる。仕方なく外から後継者を入れることになる。

昭和30年に長女の婿が番頭見習いで入店する。
社長以下8名の個人商店だが、
大卒のため番頭とは折り合いが悪かった。

 

家訓や家族会議・家伝書の類は文字化された物がなく、
口頭では家督は家長の長女が相続することになっていた。

 

典型的な「家と個人と会社」の3Kが未分化であった。

事業承継の成功には、すべての法定相続人の了解が必要だ。

承継のすべての基本は一族の結束と融和だ。

 

店で働き、家で気を使い、一族の評価に耐えて行けなくなった長女の婿は、この息苦しさに耐えらず、勤め人へと転身した。

不協和と違和感の真の原因は、婿として改名・襲名しなかったことだと、後日聞かされた。

 

次善策で三女の婿を選択したのだが、社長として自然食品メーカーを経営する傍らでは、雇用責任の重さばかりが目立った。

 

当主と祖母の相次ぐ死亡で、混乱を招く番頭と技術者たち。

新たな当主を社長とは認められず、遺恨試合の様相となり、一家はバラバラ、社員は退社、有力な顧客も離れ、廃業となった。
経営者とサポーターは、この轍を踏まないよう、十分な準備と事業承継計画を遂行していただきたい。

<私の母は当社の長女であった。>